白銀の谷 銀河英雄伝説外伝 (出典:「銀河英雄伝説」読本) 田中芳樹・著  惑星カプチェランカは銀河帝国の要衝であるイゼルローン要塞から、自由惑星同盟領の方向へ八・六光年を進入した宙点に位置している。恒星の光が地表に達するまで一〇〇〇秒以上を必要とする寒冷の惑星で、一日は二八時間、一年は六六八日からなり、ごく短い春と秋をのぞくと、六〇〇日以上が冬の領域にはいっていた。  この惑星は、帝国と同盟との歴史的な争奪地のひとつで、上空からの攻撃を効率的なものとするためには気象条件が悪く、戦火は多く地上においてまじえられた。毎年のように軍事施設の建設と破壊がくりかえされた。|B㈽《ベードライ》と称される帝国軍の前線基地が大陸のひとつにもうけられたのは帝国歴四八二年・宇宙歴七九一年のことである。  その年七月、帝国軍幼年学校を卒業したばかりのふたりの少年、ラインハルト・フォン・ミューゼルとジークフリード・キルヒアイスがこの基地に着任した。ラインハルトがローエングラムの家名をつぐ五年前のことである。  ふたりともまだ一五歳だったが、すでに身長はラインハルトが一七五センチ、キルヒアイスが一八〇センチに達していた。  とにかくよく目立つふたりだった。日光を頭部に巻きつけたような華麗な黄金の髪、氷に閉ざされた青玉《サファイア》を思わせる蒼氷色《アイス・ブルー》の瞳をしたラインハルトは、類を絶する美貌の少年であったし、燃えたつような赤毛のキルヒアイスは、ラインハルトの前でこそ影は薄いが、充分に秀《ひい》でた容姿の所有者といえたのである。  卒業後、ラインハルトは本来准尉として任官すべきところを、少尉の階級をえて任官した。士官学校卒業生と同格にあつかわれたわけで、これはラインハルトの姉アンネローゼを寵愛する皇帝フリードリヒ四世が、ごく軽くそう指示したからである。専制国家においては君主の意思があらゆる法令に優先するものであるし、たかだか一少尉の任官とあっては、血相をかえて公私混同をいさめる廷臣《ていしん》もいなかったのだ。  ラインハルトは宇宙の戦場へおもむくことに、若すぎる胸の火を燃えあがらせていた。  ところが、宇宙空間は、ただ通過しただけであり、初陣《ういじん》の場が辺境の惑星上であるということは、ラインハルトにとっては不本意きわまりないことだった。  広大無辺の宇宙空間にあってこそ、彼の才能と野心はところをえるというのに、雪と氷に凍《い》てついた高重力の惑星の地表にはいつくばっていては、星々の大海に手をとどかせようもなかった。彼がキルヒアイスに再三なげいてみせるのも、むりからぬことと言えた。  とはいうものの、前線勤務それ自体は、ラインハルトのほうから望んだことであった。最初に人事部局からしめされたのは、後方勤務、それも軍病院の事務職だったのである。安全であり楽でもあり、ときには役得もある職務だったが、ラインハルトは手ごろな安楽などを願ってはいなかった。彼はせっかくの地位を返上し、人事担当官に「生意気な孺子《こぞう》だ」と思われながらも、前線での地位を獲得したのだった。  さらにラインハルトをいらだたせている理由のひとつは、自分の参加している戦闘に、およそ戦略的意義というものを見出しえないことだった。  惑星カプチェランカは酷寒の不毛地である。赤道において厚さ一三・五キロに達する氷の下には、ニオブ、バナジウム、酸化チタニウム、金属ラジウム、ルチウム、ロジウム、レア・アース、純粋シリコン等の貴重な鉱物資源が処女の眠りをむさぼっているが、存在が確認されているだけで、採掘が経済的な価値を確立するのはいつの日のことか、予想を立てるほど大胆な者はいなかった。いずれの陣営も、採掘プラントを建設したことは一再ではなかったが、そのつど敵の手で破壊されていたのだ。かくして、「宝を奴らにわたしてなるものか」という低次元の闘争動機が雪嵐《ブリザード》のごとく、冬の厳しさを人為的に増幅し、軍事費がそそぎこまれ、兵士の死体が生産されるのだった。  ブラスターでなく火薬式の銃をさげた兵士がラインハルトを司令官室に案内した。  警備兵たちが火薬式の銃を使うのは、アンティック趣味からではなく、銃声によって味方に警告を発する必要からである。大気のある惑星では、そういう点も宇宙空間とは異なるのだ。  B㈽基地は、いずれ拡張されるにしても、現在のところは連隊レベルのささやかな軍事施設であり、司令官の階級は大佐で、名はヘルダーといった。  ヘルダー大佐は四〇代前半の、どことなく陰気で不機嫌な印象を与える男だった。眉が両端へむかうにしたがって広がり、唇の色が悪い。目の光にも活力が欠けていた。  ラインハルトの敬礼に片手で応じながら、片手は折りたたんだ紙片をつかんだままである。よほど重要な報告書か命令書の類であろうか。ラインハルトの視線がその紙片をなでると、大佐はにわかに気づいたようで、紙片を軍服のポケットにおさめ表情にカーテンをかけ、きびしげな声をつくった。 「たとえ姉上が皇帝陛下のご寵愛を受けているとはいっても、卿はいっかいの新任少尉にすぎぬ。公的な立場をわきまえ、人から後ろ指をさされぬようにすることだ」 「心えております」 「幼年学校では成績がよかったようだが、実務は学業のように理論どおりにはいかんぞ、まあおいおいわかることだがな」 「はい、胆に銘じておきます」  侮蔑の念を表情にあらわさないために、多少の努力が必要だった。このていどの、創造性のかけらもない発言で剛直さと厳格さをよそおうような上官は、尊敬に値しない。結局のところ、皇帝の寵妃の弟という権威に対抗するのに、自分自身の見識や能力ではなく、軍隊組織の権威を持ってするような輩《やから》に、何が期待できるというのだろう。 「人材はそういないものだ」  ラインハルトは失望すらしていたが、彼が将来の大成にそなえて羽翼《うよく》となるべき人物を求めていると知れば、だれでも失笑したであろう。キルヒアイス以外に知る者のない、彼のひそかな望みだった。  そのキルヒアイスは、ドーム状の基地の中央にあるホールでラインハルトを待っていたが、異様な人声を耳にしてはっ[#「はっ」に傍点]とした。  キルヒアイスは犬か狼であれば、ぴん[#「ぴん」に傍点]と耳をたてたところである。かわりに、彼は表情を鋭く引きしめた。断続する悲鳴の発生源をもとめて、彼は視線を動かしたが、すぐ方角をさだめると、基地の建設資材や車両の部品が雑然とつみかさねられた一角に長い脚を踏みいれた。  胸の悪くなるような光景だった。すくなくともキルヒアイスにとってはそうだった。悲鳴をあげて抵抗するひとりの女に、六人もの男がのしかかり、おさえつけ、どぎつい冗談や罵声をあげながら衣服をむしりとる光景は、だが、前線ではけっしてめずらしいものではなかった。  大義名分もなく勝算が確立されているわけでもない戦乱の長期化は、前線に駆り出された兵士たちの精神を腐食し荒廃させていたようである。女をおさえこむ表情と息づかいには、理性の一グラムも感じられなかった。発情期の獣でさえ恥じいるような、直截《ちょくせつ》すぎる欲望のエネルギーがとびはねていた。  一瞬、兵士たちの動きが停止した。人の気配を感じたのだ。敵意と不安にぎらつく一ダースの目が、立ちすくむ赤毛の少年に視線の矢をつきさしてきた。 「なんだ、新兵の孺子《こぞう》か」  そう言ったのは、にきびの跡が頬に残ったまだ若い丸顔の下士官だった。 「てめえにまわしてやってもいいぜ。もっとも、それまで我慢できてればの話だがな」 「無理だろうぜ、若い奴はなにしろ早いからよ。待ちきれねえとよ」  笑声が炸裂した。赤毛の少年がこれまでの人生で耳にした笑声の中でも、これほど脂《あぶら》ぎった、品性を欠くものはそう多くなかった。幼年学校で大貴族の子弟たちに身分の低さを笑われたときとはまた異質の不快さだった。 「やめろ!」  自分の声の大きさ、それにふくまれた嫌悪感の深さに、キルヒアイス自身が驚いていた。  心臓の奥深くから生じたものが、一瞬で血管網のすべてを走って、指先までも満たしている。それは潔癖から生じた正義感であるにはちがいなかったが、それ以上のもの、さらに熱く、抑制しがたいものがこめられているのだった。  アンネローゼも、皇帝の寝所につれこまれたとき、このように抵抗したのだろうか。抗しがたい権力と暴力の前に、不本意な屈服をしいられたのだろうか。それをキルヒアイスは思ったのである。看過しうることではなかった。彼は五年前、ほんの子供で、アンネローゼを皇帝の手から守ることができなかった。その負債が、つねに彼の心にあった。 「へへ、聞いたかよ、戦友諸君、この赤毛の坊やが、おれたちにやめろとご命令だぜ」  ふたたび笑声がおこった。自分たちの優位を確信した者の、かさにかかった笑いである。彼らは六人いたし、キルヒアイスは背こそ高いものの、一見すると細身であり、何よりもまだ少年であったから相手は威圧感をおぼえなかった。同年輩の少年たちの中にあっては、大人っぽく見えるのだが、戦場で生死の関門をくぐってきた兵士にとっては子供にしか見えない。 「やめろと言ってるんだ!」  キルヒアイスの声は、感銘をもっては迎えられなかった。毒々しい笑いがいま一度噴きあがると、何かが彼のほうへ投げつけられた。緑系統のあざやかな色彩が視界に広がった。兵士たちの手で引き裂かれた女の上着だった。  少年の瞳が髪の毛と同じ色に燃えあがった。  キルヒアイスは前進のばねを発動させた。兵士たちの輪が崩れた。身体ごとぶつかってきた少年の攻勢に対応しそこねたのだ。  にきびの跡を顔に残した下士官が口をおさえてうめいた。指の間から赤いみみず[#「みみず」に傍点]がはい出して、手の甲を手首へとつたい落ちた。殴打されたはずみに舌の先端をかみ切ったのだ。 「孺子《こぞう》——!」  突きとばされただけで甚大な被害をまぬがれた残りの五人は、女を放り出し、陰惨な怒気と復讐心を両眼に燃えたたせて身がまえた。もはや冷笑や冗談ですむ段階をすぎていた。  キルヒアイスの正面にいたひとりが右の拳を飛ばしてきた。充分に体重を乗せた一撃だったが、キルヒアイスをとらえるにはスピードが不足していた。バックステップしてそれをかわすと、正確無比の一発を相手のあごにたたきこむ。その兵士が吹きとんだとき、ボス格の兵士が長く太い腕をのばして、背後からキルヒアイスに組みつき、自由を奪った。「やっちまえ!」殺気だった声が赤毛の少年をつつんだ。  彼らの視界を、黄金色の閃光がかすめた。一瞬のことである。ボス格の兵士がうなり声をもらして地にはい、その身体を踏みつけて金髪の少年が立っていた。 「動くな!」  ラインハルトの声は無形の刃となって兵士たちに突きつけられた。なぐりかかろうとしたまま、兵士たちは、前進を凝固させた。それを見やりつつラインハルトは威圧した。 「一歩でも動けば、きさまたちのボスの咽喉骨を踏みつぶす。それでよければ動いてみろ」  動く者はいなかった。蒼氷色の瞳から放たれる眼光の苛烈さが、兵士たちの神経網をからめとって、指一本の動きすら不可能なものにしていた。巨体の兵士があおむけに倒れたその上に立ちはだかり、闘いにそなえて全身を緊張させた少年の姿には圧倒的なものがあった。 「キルヒアイス、銃に手をかける者がいたら撃ち殺せ。責任はおれがとる」  恐怖を知らぬげなその眼光と声が、勝敗の帰結を完全なものにした。兵士たちの抵抗の意欲は急速に枯れしぼみ、畏怖《いふ》の念と敗北感がとってかわった。弱者の対しては暴力を自由にふるうことができても、強者に対してはそうはいかないのだった。 「やめろ! 何ををしているのか」  大声をあげてかけつけた士官——フーゲンベルヒ大尉によって事態はようやく収拾された。  フーゲンベルヒ大尉にくどくど説教されつつ、ヘルダー大佐の執務室にもどったラインハルトは、不機嫌の蒸気をはき出しつづける大佐にむかって昂然と胸をそらし、妥協のない表情と口調で赤毛の友の正しさを主張した。 「キルヒアイスは彼らより階級も上であり、命令は理にかなっておりました。非はすべて被害者のがわにあります。彼らは帝国軍人であるにもかかわらず、皇帝陛下と自分たち自身の名誉を汚水に沈めようとしたのです。その非をただし、一般市民の軍によせる信頼を回復しようとしたキルヒアイスの行為は賞賛にこそ値するもの、とがめるべきどのような理由がありましょうか」  それは弁護などという受動的なものではなく、軍紀のゆるみと、それを粛正することができない指揮官に対する痛烈な弾劾だった。  大佐の執務室からラインハルトが出てくると、今度は廊下で待っていたキルヒアイスが深く頭を下げた。 「ラインハルトさま。お手数かけて申しわけございません」 「何をあやまる。お前は正しいことをしたのに」 「ですが、ラインハルトさまのお立場が……」 「もしおれが先にああいう光景を見て、女を助けようとしなかったら、お前はおれを軽蔑するだろう。同じことだ。気にするな」 「おそれいります」  いま一度キルヒアイスが頭をさげると、ラインハルトはかろやかに笑って、白いしなやかな指を伸ばし、友人の赤い髪の毛をいじった。 「気にするなというのに。このていどのことで、いちいち頭をさげていたら、そのうち逆立ちして歩かなくてはならなくなるぞ」  ……モニターTVの画面から目をはなして、フーゲンベルヒ大尉は毒々しくはきすてた。 「ふん、生意気な金髪の孺子《こぞう》め、弾丸が前からしか飛んでこないとでも思っているのか」  数百年にわたって使い古された敵意の表現を、大尉は恥ずかしげもなく使った。 「大尉どの、あんなはねあがり[#「はねあがり」に傍点]を放任しておいたのでは、秩序の維持と、何よりも大佐どのの権威にかかわりますぞ。何とかなさるべきではありませんか」  ヘルダー大佐はその煽動に乗ったふうでもなかったが、無表情のまま一枚の紙片を差し出した。それを読んだ部下の表情が大きく揺れるのを見ながら、はじめて笑顔をつくる。それとても、けっして明朗なものではなかったが。 「……というわけだ、大尉、奴は武勲をたてたがっておる。望みをかなえさせてやるとしよう。与えられた機会をどう生かすかは本人の器量と運しだい、たとえ負の方向へ動いたとしても、本人としては本望だろうて」  寒冷地用に改造された機動装甲車「パンツァー㈿」は、二年前から帝国軍地上部隊の主力となっている。  水素電池によって九五〇馬力の出力をえ、武装は口径一二〇ミリの電磁砲《レール・キャノン》と汎用荷電子粒子ビーム・バルカン砲が各一門、最高速度は時速一二〇キロ、有機強化セラミックと酸化チタニウムでつくられた車体は電波・赤外線・低周波を吸収する無色塗料で塗装されている。慣性航行システム、赤外戦暗視システム、空中姿勢制御システム、指向性集音解析システム、地磁気測定システム等が完備しており、帝国軍技術開発陣が巨大な国費をそそぎこみ、メカトロニクスの粋を集め、対費用効果すら半ば無視して完成させたものであった。  もっとも、すぐれた索敵・通信システムは同等の能力を有する防御・妨害システムによって無力化される運命をたどるのが、軍事技術のつねである。たがいにテクノロジーを無力化しあったあげく、地上戦においては軍用犬や伝書バトまで使われるし、それに対して脱臭剤を散布したり肉食性の猛禽《もうきん》を放ったりすることまでおこなわれている。およそ人間のいとなみのなかで、もっともむなしいものに注入さえるエネルギーと物資の量は想像を絶するものだった。  ラインハルトの思考は、戦争それ自体への否定へは向かわない。戦略的意義を無視して、ただ当面の敵に一定の損害を与えればそれですむとしている。構想力と覇気の欠如が、彼の怒りをかきたてるのである。 「こいつらには——いや、こいつらだけではない。帝国軍の上層部からしてそうだが、なぜ戦うのか、目的を達成するために何をなすべきか、まるで考えていない。敵がいれば戦って勝てばよい、としか思っていないのだ」  ラインハルトは、むろん彼らとは異なる。彼は宇宙を手に入れようとしていた。その前段階として彼は現在の銀河帝国——ゴールデンバウム王朝を打倒して、それにとってかわらねばならず、そのためには武力と権力を手中におさめねばならず、そのためには武勲をたてて栄達しなくてはならなかった。「自由惑星同盟軍」を自称する叛乱軍の地上部隊は、この基地から西方六〇〇ないし七〇〇キロの山間部に拠点を構築しつつあるものと推定される。その拠点の位置を確認し、帝国軍がそれを攻撃、破壊、また占拠するための情報を収集すること。  ヘルダー大佐の命令はそういうものであって、表面だけを見れば、異をとなえるにはおよばないものだった。しかし、ラインハルトもキルヒアイスも、口にこそ出さなかったが、これが大佐の懲罰であることは明白すぎるように思えた。成功を祈願しているにしては粗雑すぎる命令であったし、地理に精通した兵士の案内すらない。電子頭脳に情報がインプットされているといっても、結局のところ補完的機能にとどまるのである。  大佐が彼らふたりに悪意をいだいていることは、うたがいようがなかった。にしても、その原因が必ずしも分明ではない。単なるいやがらせなら、過去にいくらでも経験があるが、これはいやがらせとしてはいささかていど[#「ていど」に傍点]をこしている。  見送る者もなく基地を出発した装甲車は、五時間にわたって雪と氷の谷間を前進しつづけた。  夏の一時期は氷がとけ、水が流れることもあるのだろう。幾層にもかさなった氷は、ときとして下方の亀裂をそのまま形に残し、その上に冷たい透明な板をかぶせたように見える。凍結する際につくられた水泡を丸く残して封じこめた紋様を見ると、時間の流れの一部分がそのまま切りとられて、風化の手のおよばない場所でひそかに、しかし大切に保存されているようにも思えるのだった。  異常に気づいたのは、基地を五〇〇キロも離れ、夜が世界を濃藍色のペンキで塗りこめはじめたころである。細長い谷間のような場所だった。運転席のキルヒアイスが赤毛を片手でかきあげつつ小首をかしげた。 「変です。これを見てください」  彼の指先で、「エネルギー費消度」をしめすランプが赤く点滅していた。ラインハルトは形のいい眉をひそめ、装甲車をとめるよう命じた。 「水素電池は新しいものに換えたばかりだぞ。この目で確認した」 「ええ、私も確認しました。ですが、確認した後、ずっと車のそばを離れなかったわけではありませんから……」  ふたりは目を見かわした。金髪のほうの少年の口から、鋭い舌打ちの音が発せられた。大佐の手が動いたものとしか思えなかった。 「懲罰などというものではないな、これは。ここで死ねということらしい」 「ですが、ここまでだいそれた細工をする理由は何でしょう。後になって冗談だったではすまないでしょうに」 「それをぜひ知りたいものだ」  ラインハルトが首を横に振ると、華麗な黄金の髪が波だち、麦の穂が陽光にゆらめくさまを思わせた。一瞬、キルヒアイスはそれに見とれたが、美的鑑賞にひたっている場合ではなかった。ことは生死にかかわるレベルの問題である。 「どうします、ラインハルトさま、引き返すにしてもエネルギーがもちませんが……」 「とにかく夜がすぎるのを待とう。動きたくともこれでは動けない」  ラインハルトとしては選択したわけではなく、それ以外にどうしようもなかったのである。動力が切れれば、装甲車が動かないだけではない。兵器も無用の長物になり、照明も暖房もはたらかなくなる。索敵システムも無力化する。せめて恒星光でもないことには動きようがない。それでもやるべきことはやっておく必要があった。わずかな残りの動力で装甲車を氷の崖のくぼみに移動させ、雪と氷をかけてカムフラージュする。車輪の跡も多少はかくしたが、後は降雪にまかせた。さらに機会音だけに反応する超小型センサーを各処にばらまいた。  装甲車のなかにもぐりこむ。断熱服のおかげで凍死は避けられそうだが、室温が一秒ごとに低下していくその感触は、快適にはほど遠いものだった。はきだす息が凍結して静電気のような音をたて、冷気が頬《ほお》を押す。その力が強まっていく。ハンドライトを点灯させたが、明度は最低限におさえた。おさえがたいのは食欲である。食べざかり伸びざかりのふたりには、ひときわ切実な問題だった。 「姉上のつくってくれた玉ねぎのパイが食べたいな。それに熱いコーヒ−を一杯」 「クリームをたっぷり入れて」  キルヒアイスが応じた。ふたりとも、肥満を恐れる必要がまったくない体質だった。ラインハルトは優美で、キルヒアイスは強靭であり、ともに引きしまって、鋭い発条《ばね》と、弾力にとんだ良質の筋肉の存在を印象づける。 「姉上のパイにくらべるのがまちがいだが、こいつは家畜の餌だ。ひどすぎる」  ラインハルトは、弾力のない黒パンを指先でつついた。放射線保存された調理品もあるのだが、加熱しないことにはどうしようもない。にしても、このパンの質の悪さは尋常ではなかった。 「大佐のやつ、物資を横流しでもしているのかもしれんな」  ありうることだった。兵士レベルの退廃と腐敗はその目で確認したが、社会や組織が下から腐食することは絶対にない。必ず上から腐りはじめる。歴史上ひとつの例外もないことは、人間社会にあってはまれな法則性であった。  ラインハルトは豪奢《ごうしゃ》な黄金の髪を指でかきあげた。 「凍死や餓死でなくても、おれは地上で死ぬのはいやだ。どうせ不老不死ではいられないのだから、せめて自分にふさわしい場所で死にたい」  むりもない、と、キルヒアイスは思う。この人の両脚は大地を踏みしめるためでなく、空を翔《か》けるためにつくられているのだ。地上はラインハルトの死ぬべき場所ではない。たとえ繚乱《りょうらん》として花々が咲きほこる庭園でも、大理石とクリスタル・ガラスの豪奢な宮殿でも、ラインハルトにはふさわしくない死場所であるように思える。 「キルヒアイス、お前は死場所に望みがあるか? いずれにしても、こんな場所では死にたくないだろう」 「私はそばにラインハルトさまがいらして、アンネローゼさまがいらして……あとは何もいりません」  自分が無欲だとはキルヒアイスは思わない。むしろ大それたことを望んでいると思う。ラインハルトやアンネローゼと未来を共有したい彼なのだから。 「おれが手に入れるものは、どんなものでも、半分はお前のものだ。名誉も、権力も、財宝も、あと何でもな」  濁りのない声で、熱っぽくラインハルトは言ったが、ふいに苦笑した。 「……でも、いまのところはこの黒パンとコーヒーと、それに希望だけだな」 「さしあたっては、それで充分ですよ」  キルヒアイスは最後のコーヒ−を半分ずつふたつのカップにそそいだ。それこそがラインハルトの意にそったことなのだ。もし全部をラインハルトに飲ませるようなことをしたら、本気で怒られるにちがいない 「コーヒーを飲んだら先に寝ろ、命令だ」 「はい、少尉どの」  キルヒアイスは軽くおどけてみせた。ラインハルトの誇りと責任感を尊重するのも彼の重要な役目だった。  ……幼年学校を卒業するとき、ラインハルトは当然のごとく主席だった。それは彼には結果だって努力目標などではなかった。認識と把握の能力が卓越しているからこそ、学業に必要な記憶の選択と蓄積、さらにその応用が可能なのであるが、ラインハルトの価値観は想像と構想に重きをおくので、自分自身の成績の優秀さなど、じつのところばかばかしい。いずれ彼が権力を握ったとき、硬直しきった幼年学校や士官学校の教育も全面的な改革の対象となるであろう。  キルヒアイスも優等生グループの一員に名をつらねてはいたが、ラインハルトと彼の間には、必死で学業にいそしむ努力家たちの群が一個小隊ほど存在していた。  実技科目では、キルヒアイスはしばしばラインハルトさえしのぐ成績をおさめた。射撃は全学年で二位だった。一位は、天才としか言いようのない小柄な生徒だったが、この生徒は射撃においてのみ天才だったので、総合評価ではキルヒアイスよりはるかに下だった。  白兵戦技においても、キルヒアイスは学年の最優秀位をしめていた。彼より巨大な体格と豊かな腕力を有する者はいくらでもいたが、彼ほど完璧に肉体の動きをコントロールできる者は、上級生にもごくまれだった。むろん、基地の兵士たちはそのことを知らなかったのである。  ラインハルトはそのことを単純には喜ばなかった。 「単なる護衛役なんか、この先いくらでも見つかる。だけど、お前はそれだけじゃだめだ。おれの代理として何万隻もの艦隊をひきいてくれなくてはならないんだから」  そして、キルヒアイスと戦略や戦術について語りあいたがるのだった。他人が見れば、誇大妄想としか思えないだろう。だが、比類ないほど端麗な美貌を生色にかがやかせながら語るラインハルトを見るのは、キルヒアイスの喜びとするところだった。いまひとつ、ラインハルトの姉、グリューネワルト伯爵夫人の称号をもつアンネローゼと語らう喜びとともに。  庭園のカスケード(水の流れる階段)のそばにたたずんで、木洩れ日にきらめく流水を見つめているアンネローゼの姿が、視覚をとおしてキルヒアイスの記憶に深く根をおろしている。はじめて新無憂宮《ノイエ・サンスーシー》への立ち入りを許されたとき、キルヒアイスは、白亜の宮殿にも、幾何学的に樹木と園路を配置した庭園にも、虹のかかった巨大な噴水にも目を向けなかった。遠くから、ひたすら、彼の心の神殿に住む女性の姿を見つめていたのだ。  一方には、まだ少女時代のアンネローゼの姿も、キルヒアイスの網膜に刻印されている。弟のそれよりはやや色調の濃い金髪をおさげにして、質素だが清潔で上品な、手入れのいきとどいた服を着て白いエプロンをつけ、弟とその親友のためにパイを焼いてくれる姿。それまでも、それ以後も、豪華なよそおいに身をつつんだ貴婦人を数多く見たが、黒貂《セーブル》の毛皮も、翡翠《ひすい》の宝冠も、白いエプロンをつけたアンネローゼの姿に遠くおよばない。 「……ラインハルト、ジーク、はやく手を洗ってらっしゃい。焼きたてのパイが待っているわよ」  なんと甘美であたたかい声だったことか。そしてその声で彼は依頼されたのだ。 「ジーク、ラインハルトのことをお願いするわね。あの子は他に友だちを持とうとしないけど、あなたひとりで充分と思う気持は、私にもわかります。引きうけてくださる?」 「はい……はい、生命にかえましても」  本心だったからこそ、その言葉が赤毛の少年の口から出た。それは少年にとって神聖なことこの上ない誓約だった。 「それではいけないわ。ふたりとも元気で帰ってきてくれないと……」  アンネローゼは、瞳の色も弟よりやや濃い。その瞳はキルヒアイスをじっと見つめている。深い深い、ひきこまれそうな生気の泉。 「どちらかがどちらかの犠牲になるような仲は、長つづきしないわ。あなたがたふたりは、おたがいに必要な存在であってほしいの。どうか、たがいに与えあう仲でいてね」 「はい、アンネローゼさまのおっしゃるとおりにします」  それだけ言うのがやっとだった。本当は訊《き》いてみたかったのだ——自分はあなた個人[#「個人」に傍点]にとっても必要な存在なのだろうか、と。いつか、だれよりも必要な存在になることだできるだろうか、と。だが、心のおもむくままに行動をなすには、誓約が多すぎた。キルヒアイスは膨大な量の感情を胸の奥にしまいこみ、フロイデン山地へと発《た》つ彼女を見送ったのだ。  フロイデン山地の山荘をふたりが訪問したのは二度ある。むるん、皇帝が不在のときだった。最初のときは激しい春の嵐にみまわれ、暗灰色の雨のなか山荘に閉じこめられて、予定していた遊びなどひとつもできなかった。暖炉の炎の前でかわるがわる歌を歌い、それがつきると沈黙して炎を見つめていたのだ。それぞれの瞳にそれぞれの炎の影。  二度目のときは晴天にめぐまれた。クリスタル・ガラスを液体化したような澄明な小川で鱒《ます》を釣り、石と木の枝で炉をつくってバターで焼いて食べた。これは考えてみれば尋常ならざる特権の行使だった。フロイデン山地のものは、空気も、水も、土も、川に泳ぐ鱒も、雑草にいたるまで皇帝の私有物だったのだから。そして、そこに建つ山荘も、山荘にいる女性 《ひと》も……。  耐えられないのはその点だった。皇帝が豪奢な宮殿で連夜の舞踏会をもよおし、森と草地と渓谷をいくつもかかえこむ広大な猟園でバッファローや狐を狩りたて、宝石や大理石や貴金属で居室をかざりたてようとも、そんなことはいっこうにかまわなかった。趣味と財力のかぎり、贅《ぜい》をつくすがよい。美女を後宮に集めて妍《けん》を競わせるのもよいだろう——自分から権力者の所有物となることを望み、特権の落ちこぼれをひろい集めるような女性も、たしかにいるのだから。  だがアンネローゼはちがう。彼女は、腐臭を放つ権力者の鳥籠に閉じこめられるにふさわしい女性などでは絶対になかった。  あの薄よごれた老人、礼服にさげた勲章の重さにすら耐えられそうにない老醜の権力者が、アンネローゼの献身的看護に値するなどとキルヒアイスは信じなかった。あの白い手、熱を持った額《ひたい》にひんやりと心地よい感触を与えてくれるなめらかな手は、ラインハルトとキルヒアイス、ふたりのためにのみ存在するはずだった。だからこそアンネローゼの手は二本しかないのではないか。赤毛の少年は、本気でそう感じていた。その誤りを是正するためには、ラインハルトの構想するように権力構造を変革し、そのなかで力をえなくてはならないとすれば、キルヒアイスにとって、ラインハルトの目的達成に貢献することは、疑いもなく正義でありえたのである。  急速に意識が覚醒したのは、わずかな振動を肩のあたりに感じたからである。目をあけたとき、ラインハルトが軽く肩をゆさぶったことを、キルヒアイスは了解していた。 「敵の装甲車が三台、うろついている」  ラインハルトのささやき声に、キルヒアイスもささやきかえす。ラインハルトの肩のあたりが冷たく濡れているのを彼は知った。 「わざわざ外に出てごらんになったんですね。おこしてくださればよいのに」 「いま、おこしたところさ。こっちはエネルギーをまるで使ってないから、先方には所在がわからない。その分は有利だが、ここまで敵が進出してきているとは思わなかったな] 「大佐も、ここまで計算してはいなかったでしょうね」 「だが、期待してはいたはずだ」  ラインハルトの声はにがにがしい。  おそらく大佐は上層部に個人的なコネクションを持っているのだろう、と、ラインハルトは推測していた。自然的にも人工的にも、これほど濃密な危険にみちた土地に、ラインハルトたちふたりだけを派遣すれば、後日、非難されるおそれがあるはずなのだ。戦場に到着したばかりの未熟練者をふたりだけで偵察行に出したりしたら……ましてラインハルトは皇帝の寵妃の弟である。 「そのていどのことは、もみ消してくれる奴が上層部にいるのだ。うすぎたない同志的連帯感で結ばれているのだろうな」 「とすると、ずいぶん根が深そうですね」 「ああ、大佐ひとりの面子《メンツ》がどうのこうの言う次元のものじゃなさそうだ。おれたちがこの惑星《ほし》に着く前から、歓迎の準備でもしていたのかな」  いずれにしても、大佐の思惑に乗ってやる必要はいささかもない。加えて、ラインハルトたちには、より積極的に対処すべき理由があった。 「あいつらの装甲車を手に入れれば、おれたちの生きて帰る道は、ずっと幅を広げるだろう。そう思わないか」 「ええ、何倍かになりますよ」  彼らにとって、最初の戦いは、武勲や野心を云々《うんぬん》する以前に、生きるための戦いとしてあらわれたのである。これはむしろ、願ってもないことかもしれなかった。こちらがたったふたりであるのも、たがいの呼吸からいえば夾雑物《きょうざつぶつ》がないだけよい。  ふたりは装甲車の後部座席に搭載しておいた|精密誘導兵器《RPG》——対装甲車ロケット・ランチャーを引っぱり出した。ブラスターのエネルギー・カプセルを確認する。ラインハルトは崖からさがった大きな氷柱《つらら》の一本をファイティング・ナイフで切りとった。崖にはいのぼると、眼下の狭い切りとおしの道を、三台の装甲車が一列になって通過しつつある。ラインハルトとキルヒアイスはうなずきあうと、対装甲車ロケット・ランチャーを手早くセットした。  一時期、重機動装甲服《パワード・スーツ》が宇宙時代の最高兵器ともてはやされながら、ごく短期間にすたれてしまったのは、精密誘導兵器《RPG》に対する弱点をかかえていて、それが致命的なものだったからだ。重量が、とくに接地圧の高さにあらわれて動作が鈍くなれば、精密誘導兵器《RPG》の好餌である。ジャンプ・ロケットをとりつけても、積載燃料の量がごくわずかなのですぐエネルギーぎれになり、やはり精密誘導兵器《RPG》にねらわれる。パワーとエネルギーを強化するため超等身の巨大なものにすれば、ますますねらいやすくなるだけである。ことに、安価なロケット弾一発で、パワード・スーツそのものは破壊できなくとも、なかにいる着用者が衝撃で動けなくなり、とくに脳震盪を生じて無力化する例が続発してからは、ばかばかしくなって、いずれの陣営でも使用しなくなった……。  ふたりはランチャーが崖の稜線から頭を出さないよう用心した。敵の金属センサーに発見されたら終わりである。一台めをやりすごし、二台めも通過させる。直接目に見ず、ほとんど無音走行といっても、重量による振動だけはどうしようもないから、通過する状態がわかるのだ。三台めが通過しかかったとき、ふたりはランチャーを崖から突き出し、装甲車の後部めがけて発射した。  いつわりの静寂は、鼓膜を乱打する爆発音によって引き裂かれた。炎と煙が装甲車をつつみ、破壊された車体の破片が熱風に乗って宙を乱舞する。 「まず一台」  ラインハルトは会心の微笑を浮かべた。キルヒアイスはまぶしく思わずにいられない。黄金の髪に白銀の微笑をあわせ持った彼の天使には、勝利の笑顔こそふさわしかった。  ただし、その微笑はすぐに消えさり、鋭い緊迫した表情がよみがえった。他の二台の装甲車が爆発音を聴きつけ、反転してきたからである。  オレンジ色の炎と黒い煙が縞模様となって舞いあがり、渦まいている。装甲車が停止すると、ビーム・ライフルやブラスターをかまえた同盟軍の兵士がいきおいよくおり立った。味方がやられたのは精密誘導兵器《RPG》によるものだということは一目瞭然であるから、装甲車に乗ったままでいるのは危険きわまりないのだ。人数は合計八人。  兵士たちの間で短い会話がかわされ、四人ずつが組になって前後の方向へ分かれた。行動にむだがない。分かれたのは敵の所在をより早く知るためと、一ヵ所にかたまって火力を集中される危険をさけるためであろう。待ち伏せに対して、けっしてまちがった対応ではなかった。まさか相手がたったふたりとは思わない。だが、大胆なふたりの少年にとって、これは各個撃破の好機だった。二対八では勝算はない。だが、二対四ならやりかたによっては……敵の位置を確認すると、ふたりは使い捨てのランチャーをそのままに、崖の反対側をすべりおりた。彼らも二手に分かれる。  四人の兵士が用心深く進んできた。四人めの男は後むきになって、後方からの襲撃にそなえている。タイミングをはかって、キルヒアイスが前方の曲り角の先で大きな氷のかけらを投げる。その音が兵士たちを引きよせた。三人はそのまま走り出す。四人めは向きをかえるのにややてまどり、はなれて僚友たちの後を追いかける。  その瞬間に、ラインハルトは四人めの兵士を襲った。金属センサーに反応しない氷の長剣を小脇にかかえるようにして、高重力下にもかかわらずまるで体重のないもののような身軽さで、同盟軍兵士の装甲服についた熱センサーが反応し、兵士が身体を回転させようとしたとき、ラインハルトの身体がたたきつけられてきたのだ。  無彩色の世界に真紅の帯が一本ひらめいた。装甲服にとって関節部は最大の弱点であり、もっとも太い関節部とは、すなわち頚《くび》の部分である。氷の剣は兵士の頚に突きささり、気管と頚動脈を傷つけた。  酷寒の大気を、笛のような高い音が切り裂いた。致命傷を負った兵士は倒れながら身体をよじり、反動でラインハルトをはね飛ばした。氷の剣は半ばで折れ、一方はラインハルトの手に残り、いま一方は兵士の頚を深くつらぬいたまま凍てついた地表にぶつかってまた折れた。  音を聴《き》きつけた三人の兵士が駆けもどり、ラインハルトの姿を発見して銃口をむける。  氷の上を、長身を丸めて回転しつつ、キルヒアイスがブラスターを三連射した。速さも正確さも尋常ではなかった。ヘルメットの有機強化ガラスが異音を発してくだけ、ふたりが倒れる。三人めには命中しなかったが、これは、その三人めの兵士の守護天使が死力をつくしたせいだった。その兵士はみがきあげられたようになめらかな氷の表面に足をとられて転倒し、光条は一瞬前まで彼の頭があった空間をつらぬいただけである。  転倒しながら、その兵士は応射した。キルヒアイスの視界を光条が傾行し、数センチの差で、彼の肉体ではなく氷がはじけ飛ぶ。キルヒアイスの顔を氷の細片が打ち、彼はほんの半瞬目をとじたが、ふたたび開いた視界は、いったん半身をおこした兵士が氷上にくずれる光景をとらえた。ラインハルトの放ったビームにヘルメットの窓の中心部をつらぬかれたのである。  やがて、最後に残った兵士四人が発見したのは、僚友の四個の死体だった。ヘルメットごしに、彼らは怒りと不安の視線をかわしあった。彼らは無人で無動力となった帝国軍の装甲車を見つけて首をひねり、この場へやってくるのが遅れたのだ。ラインハルトとキルヒアイスは、緊急医療用の液体酸素ボンベをかかえて、崖の上から彼らを見ていた。ここまでは先手先手ときたわけで、動力と熱源のないことがラインハルトらの立場をかえって有利にしたのは、皮肉もきわまることだ。  自分たちは熟練した敵の一個分隊以上の兵士と対峙《たいじ》しているもの、と、同盟軍の兵士たちは信じていた。初陣の少年ふたりに翻弄されていると知れば、彼らの屈辱感と憎悪はいやましたことであろう。  彼らは熱センサーを最大出力にして周囲をさぐり、ひとかたまりになって崖の直下へ近づいてきた。今度は各人が各個撃破されることをおそれ、また包囲されたときに即応できるように、さらには崖を背にして一方からの攻撃を回避できるように、との意図からそうしたのだ。  その瞬間、金属センサーがけたたましく鳴りひびいた。液体酸素のボンベが彼らの頭上に突きだされたと見ると、極低温の液体が小さな滝のようにふりそそいできた。  液体酸素を頭からあびた同盟軍の兵士たちは、一瞬にして凍結した。  悲鳴を放つ間もなかった。装甲服も無力だった。レーザー・ビームや固体弾に対して堅牢さを誇る装甲服も、このような襲撃法に対処しようがなかったのだ。  姿勢を安定させていた者は、凍ったまま大地に根をはやした。だが、そうでない者は、凍結した身体を大地へ倒れこませ、異様にかわいて澄んだ音をたててくだけた。まるで安物のガラス皿のように。  それははなはだ無機的で現実感を欠いた光景だった。血の匂いも肉の温かみもなく、それだけに殺戮のなまぐささもなかった。人間を消耗物とみなし、数量に還元してしまう戦いの極端な一断面であったかもしれないが、さしあたり、ふたりの少年はそこまで思いをはせる立場にない。  ラインハルトとキルヒアイスは、主人を失った同盟軍の機動装甲車に歩みよった。装甲車それ自体を捕獲するのは彼らには不可能だった。電子頭脳と連結した運転用ヘルメットには脳波パターン検出システムがついている。それを無力化する装置は手元にないし、車体ごと輸送するための車両もない。  ふたりは必要なものだけを獲得することにした。長距離走行に耐えるエネルギー残量を持つ水素電池、敵の基地の位置を逆算するために有益な慣性航法システムのデータなどである。  水素電池を交換し、自分たちの装甲車にエネルギーが回復したとき、ラインハルトとキルヒアイスは、いきおいよく宙でたがいの右の掌《てのひら》を打ちあわせた。これで彼らの初陣は一段落したはずだった。装甲車三台の敵をたったふたりで壊滅させ、敵基地の位置に関するデータを入手したのである。まず充分以上の功績といってよかった。しかし、ラインハルトは安心しきってしまう気になれなかった。彼はキルヒアイスに自分の考えを話し、手ばやく、ある状況の出現にそなえて用意をととのえた。  すべてを終了したところで、ようやく彼らは空腹をなだめることができた。消化器の不平の声をことさらに無視して活動してきたふたりだった。氷壁の反対側に装甲車を移動させ、超音波レンジに放射線殺菌のクリームシチューと鳥肉パイを押しこみ、コーヒーをわかした。そして、いささか不謹慎かもしれなかったが、小声で歌まで歌いながら、ふたつの嵐にはさまれたあたたかい食事を楽しんだ。 「おやおや、生きていたのか、運のいいことだ」  毒々しい声が、あらたな劇の開幕をつげた。  半ば雪と氷に埋もれた機動装甲車の車体の上にすわりこんでいたラインハルトは、蒼氷色《アイス・ブルー》の瞳をあげて声の方角を見やった。三〇メートルほど離れた氷の崖の下に、帝国軍の機動装甲車が停止し、一台のルーフウインドゥからフーゲンベルヒ大尉の上半身が突き出していた。薄い唇が半月形をつくり、そこにただよう笑いは周囲の冷気よりさらにひややかだった。 「大尉、どうしてここに!?」  ラインハルトは驚愕の声と表情をつくったが、じつのところ、自分の予想が的中したことに満足していた。かならず誰かがラインハルトたちの死を確認しにやってくる。犯罪者は犯行現場を確認せずにはいられないものだからだ。ラインハルトの死を望んでいるのであれば、その証拠となる死体を見つけずにはいられないであろう。それを予期して、彼は自分たちの武勲の証《あかし》となるものすべてを雪と氷の下に匿《かく》しておいたのだ。  愉快そうに、同時に毒々しく大尉は笑った。ラインハルトが狼狽したのを見て満足したようであった。 「少尉、卿の部下はどうした? 赤毛の姿が見えないが……」  ラインハルトは顔ごと視線を落とした。うなだれたように見えるが、じつは表情を隠すためであった。 「……動力が切れて車も動かず、武器も使えなくなったので、助けを求めに外へ出て谷底に転落した。助けられなかった」 「ほう! 気の毒にな」 「彼の遺体をさがしたい。てつだってくれ。そのあと、そちらの装甲車に乗せてもらって基地へ帰る」 「せっかくだがことわる」 「じゃ、何しにここまでやってきたんだ」 「隠してもしかたないな。少尉を永遠に基地に帰さないためにやってきたのだよ。電波発信器の後を追ってな。もっとも、凍死か戦死しているのを期待していたのだがね、しかし、ときには肉体労働もしなくてはならないらしい」 「何だって!?」  またしても大声をあげてみせると、大尉は一段と満足したようすである。 「卿にとっては、初陣が最後の戦いになるわけだ。何とも傷《いた》ましいことだが、べつに珍しいことではない。最初の戦いこそが、もっとも困難なものだからな。あきらめて、いさぎよく赤毛の戦友の後を追うことだ」 「ヘルダー大佐がこのことを知ったら、きっと厳罰を下すあろう」 「その大佐のご命令なのだ、卿を殺せというのはな」  ラインハルトはまたも自分の推測の正しさを確認したが、むろん口には出さなかった。相手の優越感、勝利感を増幅させ、より多くを語らせねばならない。 「なぜだ。私が何をした。大佐のお気にさわるようなことをしたおぼえはないぞ」 「いるだけで気にさわるのだよ」  大尉の表情には、官僚型軍人の最悪の一面——弱い立場の者に対する限度のない加虐性がむきだしになっていた。 「私はグリューネワルト伯爵夫人の弟だ。いずれお前たちの上に立つべき人間だぞ。こんなことをして無事にすむと思っているのか」  悲鳴に近い声をラインハルトはあげてみせた。この演技が、さらに貴重な情報を彼にもたらすあろうとの確信があった。 「姉の威光を借りての増長か。だが、気の毒に、そんなものはもう存在しなくなる。光の源それ自体が消えてしまうというのにな」 「なに……」  蒼氷色《アイス・ブルー》の瞳が大きくみはられた。半ば演技ではなかった。ラインハルトがいかに明敏であっても、一五歳の少年には予見力の限界というものがあるのだ。 「ヘルダー大佐は宮廷の、やんごとない身分の方とつながっておいでなのだ。卿らがこの惑星に到着するのと前後して、その方から親書がとどいた。その方は陛下の寵愛あつい貴婦人でな。成りあがりの貧乏貴族出《で》の小娘などに宮廷を牛耳《ぎゅうじ》らせるのは耐えられぬとおおせだ。で、ものの順序として、まず弟から消してしまうように、とな」 「……いったい誰だ、その貴婦人とは」 「どうせ誰にも告げ口できんのだから教えてやろう。その方の名はな、ベーネミュンデ侯爵夫人とおっしゃるのだ」 「……聞いたことがある。姉上の前に皇帝の寵を受け、男の子を死産したことのある女性だな」 「そうだ。生まれながらの貴婦人だ。きさまの姉のような売女《ばいた》とは身分がちがう」  その下劣きわまる罵声を耳にしたときラインハルトの蒼氷色《アイス・ブルー》の瞳が、正視しがたいほど苛烈な光を放った。 「よし、わかった。きさまにはもう用はない。キルヒアイス! やれ!」  装甲車のなかに身をひそめていたキルヒアイスは、完全に準備をととのえていた。命令と、それに対する反応は、油断しきっていたフーゲンベルヒ大尉らのそれより、はるかに迅速で正確だった。一二〇ミリ電磁砲《レール・キャノン》が轟然と火の塊を吐き出し、大尉が乗っていないほうの装甲車をとらえると、反撃のいとまもあたえずめくるめく爆発光のなかに葬りさる。冷気は熱風に押され、乱流となって周囲の氷壁を乱打した。 「殺せ! 奴らを殺すんだ」  大尉は抑制を失った声でわめいた。ラインハルトは釣りあげられた魚どころか、罠のなかから猟師めがけて跳躍する虎だったのだ。狼狽と恐怖にわしづかみにされた大尉の眼前で第二弾が炸裂した。ラインハルトは装甲車の右三輪を氷壁にかけて左三輪だけで走らせ、相手の発砲をかわし、その体勢からキルヒアイスは正確な第二弾を撃ちこんだのだ。  フーゲンベルヒ大尉は雪と氷の分厚いカーペットの上に、血を流してはいつくばる自分を発見した。光と炎に眼を、爆発音に耳を、苦痛に腹部を、それぞれ犯されていた。ふたりの少年が彼の前に立ったのを知ったのは気配によってであった。 「ほう、生きていたか」  今度はラインハルトがひややかな声を投げつける番だった。流れ出す血に、ときならぬ雪どけをつくりながら、フーゲンベルヒ大尉はあえいだ。覇気と敵意が一瞬ごとに体外へ逃げ出すのを自覚しつつ、大尉は、実際よりさらに弱々しい声で助命を請うた。前非を悔い、忠誠を誓ってみせる。 「どうする、キルヒアイス」  ブラスターの銃口をややさげて、黄金の髪の少年が問うと、赤毛の少年はつねにない厳しい拒否の表情をしめした。 「……この男はアンネローゼさまを……アンネローゼさまの名誉を汚しました」  売女《ばいた》という言葉を使用するのはキルヒアイスには耐えられないことだった。ラインハルトがうなずくと黄金の髪が光の波をたてた。 「聞いたか、大尉、私も彼と同意見だ。私たちを殺そうとしたことはまだいい。立場もあるだろう。あが、卿は言ってはならぬことを言った。他に罪のあがないようがないな」  ブラスターから条光がひらめき、大尉の両眼の間に突き刺さった。倒れて二度と動かない大尉の眼が雪と虚無を映し出していた。 「こんな奴らを相手に戦わねばならなかったとはな……」  ラインハルトは苦い声でつぶやいた。彼はすぐれた敵、尊敬に値する敵と戦いたいのである。それもこんな辺境の惑星上でではなく、無限の深みと広がりを有する星々の大海において。いつ望みがかなうのだろうか。 「基地に帰ろう、キルヒアイス、戦いはこれからだ」 「はい、ラインハルトさま」  キルヒアイスは大きくうなずいた。基地で「吉報」を待っているであろうヘルダー大佐にしたたかな懲罰のひと鞭をくれ、その背後で糸をひく宮廷貴族たちの相応の報いをくれてやらねばならなかった。彼らの陰謀からアンネローゼを救わねばならない。それが、一時的にアンネローゼと皇帝との紐帯《ちゅうたい》を強めることになろうとも、彼女を貴族たちに害させることはできなかった。生きていれば——たがいに生きていれば、かならず、あの春の陽光にも似た笑顔を彼のみに向けてくれる日が来る。その日のために自分は戦おう。  装甲車のハンドルをにぎりながら、キルヒアイスは、ラインハルトの金髪にアンネローゼのそれをかさねあわせていた。